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全日本合唱連盟創立70周年に際して(提言) [私の意見]

全日本合唱連盟創立70周年式典
 2017年5月20日(土)に東京で掲記の記念式典が開催され、新聞記事(下記)によると、第一回合唱コンクールに参加した関学グリーなど4団体が歌声を披露したそうだ。実におめでたいことである。
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朝日新聞記事(2017.5.21.)

 合唱連盟のHPによれば、東京からは、東京ウィメンズ・コーラル・ソサエティと松原混声合唱団が招かれている。第一回合唱コンクールに参加した東京リーダーターフェルは招かれていないが、このところコンクールに参加していないので、連盟への貢献と言う観点からは当然か。

合唱連盟の意識
 合唱連盟のHPには、「わが国は、世界の中で最も合唱の盛んな国のひとつです。合唱団の数は、小・中・高校、大学、職場、おかあさんコーラス、一般と、あわせて数万に達します。これらの合唱団に所属する人たちはみな、合唱を楽しむことによってひろく音楽に親しみ、わが国の音楽文化のまことに大きな基盤を築きあげているのです。合唱音楽の普及と向上、合唱団の育成と指導、そして音楽文化の発展に寄与することを目的とします。」とある。

この意識に対して
 合唱連盟のHPに書かれた内容には、なんか違和感がある。
 まず、誇らしげに「わが国は、世界の中で最も合唱の盛んな国のひとつです。」とあるが、その意味は合唱団の数と合唱人口のようだ。
 確かに、「小・中・高校」は、熱心な教師がコンクール参加を目指し、ある数の合唱団が維持されている。大学は、学生運動盛んだった、衰退の時期からはずいぶん復旧したように見えるが、1960年代の人数と熱気にはまだまだ戻っていない。職場の合唱団は、昔に比べればそんなに多くはない。おかあさんコーラスは元気が良く、演奏スタイルが現代的で、これは盛んと言える。ところが一般合唱団は、一部の若手の団員が集まった合唱団は別として、全般的に高齢化が止まらず、行く末が案じられる状況である。
 また、「合唱団に所属する人たちはみな、合唱を楽しむことによってひろく音楽に親しみ、」との表現にも違和感がある。合唱団内で周りを見回しても、歌うこととその後の飲み会を楽しんではいるが、来日した素晴らしい合唱団の演奏を聴いたり、合唱以外にもひろく音楽に親しんでいる団員がたくさんいる、とは、とても考えられないからだ。

記念式典での理事長の挨拶にも違和感がある
 記念式典での岸信介理事長が、「合唱の普及にさらに努め、世界の平和に貢献したい」とあいさつした、と新聞記事にあることも気になった。それは、日本の合唱界の現状に、何ら疑問を持っていないような発言に聞こえるからだ。
 現在の日本の合唱界は、歌っている人たちだけの自己満足で、聴衆はまったく満足していないことには気が付いておられないようだ。(おかあさんコーラスを除いて)訳の分からない、歌詞が聴き取れない合唱作品を、楽しいのか、嬉しいのか、面白いのか分からないような、無表情のまま棒立ちで歌うからだ。そんな合唱演奏を、演奏会場に来た市民は聴かせられているのだ。
 だから、理事長が言う「合唱の普及」とは、単に合唱団の数とか、合唱団員の人数が増やすことだけを言っているようで、合唱好きの一般の人たちを増やすことは考えておられないように聞こえる。エストニアほどではなくても、合唱が一般国民に親しまれ、愛されることを目指すことは、お考えの中に入っていないようだ。
 「世界の平和に貢献したい」との発言は、世界平和に関してどのような思いを持ち、どんな形で活動したいと考えているのか、不明である。そのような「言葉遊び」をするより、合唱がより一般市民に親しまれ、愛されることを目指し、そのためにはどんな方法があり、どんな手順で進めるのが良いのか、を考える方がよほど生産的ではあるまいか。

合唱連盟の目標は?
 上に書いたことは、現在の合唱界から見れば少数意見かもしれない。しかし、心から合唱を愛する市民が増え、その中から合唱団に入る人が出てくれば、より市民に近い合唱活動をする合唱団が増えるのではないだろうか。そして、それこそが、言葉通りの「合唱の普及」になり、連盟の将来的な目標になるのではないか、と思うのだが、いかがだろうか。
(終)
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Around Singers The Final”結(musubu)”を聴いて [感想とご紹介]

このコンサートは

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プログラム表紙

 北村協一先生が指揮をなさった演奏会は数々あっても、実を言うと、私がAround Singersのコンサートを聴いたのは1996年の第3回だけである。あるご縁で、先生が指揮する演奏会を続けて聴くようになり、先生のお住まいに招かれたこともあった(先生ご自身が淹れてくださった美味しいコーヒーを思い出す)。そして、関学グリーの定演で、先生の最後の指揮となった多田武彦作曲「雨」を聴いた時の感動は忘れられない。
 そんな思い出があるところにこの演奏会のご案内をいただいた。

演奏曲目
 コンサートは2017年2月5日、第一生命ホールで開催された。

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ステージ紹介

第1ステージ:「アイヌのウポポ」-は、聴き応えがあった。練習中に「ヘハンネ」の飛び出しをしたら、「前に置く『貯金箱』に罰金を入れること」と北村先生がおっしゃった、と後でステージで話が出たが、「貯金箱」は必要が無かった。
第2ステージ:「系譜」と称し、これまで歌った曲の中から8曲を、北村先生の薫陶を受けた7人の指揮者が振った。この演奏会を通して、「上を向いて歩こう」の時だけ、歌い手の表情が緩んだ。ということは、他の曲を歌う時は実に生真面目な姿勢と表情で歌っていた。
第3ステージ:「わがふるき日のうた」は、久しぶりに聴いた多田節は実に心地良かった。

気になったこと
 「わがふるき日のうた」は、歌ったことは無いが、三好達治の詩は多少は記憶にあった。ところが、である。演奏を聴いていて、歌詞がさっぱり聴き取れないのだ。私の周りの人たちは、プログラムに印刷されている歌詞を一生懸命追いながら聴いている。その紙の音がうるさくてたまらなかった。
 帰途、電車の中で読んでみて、何故歌詞が聴き取れないのかが分かった。

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歌詞の頁

 中でも独り笑いしたのは「みみず」「みみず」と何度も聴こえたのは「みみずく」だった。
 言葉を聴き取れず、意味が分からなかったのはほぼ全体にわたるが、若干の例を挙げれば、「蝶のやうなわたしの郷愁」(V)、「つねならぬ鐘鳴りいでぬ」(VI)、「鶏鳴か五暁かしらず」(VI)など、文字を読んでも意味がすぐには分からない。まして、合唱演奏に漢字は無い。
 合唱演奏で歌詞が聴き取れないという問題は、演奏した合唱団の責任では無い。合唱作品にこのような詩を選ぶこと自体が問題なのではなかろうか。(合唱演奏で歌詞を聴き取れないのはよくあることなので、メロディとハーモニーを楽しむのが日本的な合唱の鑑賞法だと、私は半分は諦めている。)
(終) 
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野坂操寿さんのこと [ご紹介]

2017年2月3日付 日経新聞「文化」欄
 2017年2月3日付 日本経済新聞「文化」欄に、私の敬愛する筝曲者 野坂操寿さんのことが「筝進化25絃の深い音色 ・音域4オクターブ、西洋楽器とコラボや現代楽曲演奏・」載っているので、ご紹介する。(記事全体どころか、上半分でもスキャンしたデータ量が1Mを超え、ここにアップ出来ないので、肝心の部分だけ。)
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2017年2月3日付 日本経済新聞「文化」欄 筝曲者 野坂操寿さん

 この記事の中で、「最初に弦を20本に増やす決意をしたのは68年暮れ。きっかけは男声合唱団のドイツ公演に同行したことだった。聴衆が初めて聴く筝の音色に興味を示したのを見て、大事なのは形ではなく音色なのだと悟った。」とあるのは、男声合唱団東京リーダーターフェル1925が1968年に第一回ドイツ演奏旅行をした時のことである。この旅行中に、同じく同行した作曲家の三木稔と話し合った中でアイデアが生まれた、と聞いたことがある。以下は、記事の一部を、私の知識と併せてご紹介する。

二十絃筝の完成
 ドイツから帰国後、野坂さんは二十絃筝の完成に精力的に取り組み、69年春に完成する(絃の数は名前より1本多い21弦になった)と、三木さんは二十絃筝の作品を作曲し、その年の11月の演奏会で演奏した。この演奏会で野坂さんは、芸術祭奨励賞を授与された。

二十五絃筝の完成
 その後いろいろあって、野坂さんは作曲家 伊福部昭の(筝ではない楽器の)作品に出会って感動し、それらの曲を演奏するために二十五絃筝を完成させた。伊福部さんは、この楽器のための作品をいくつか作曲したが、他の作曲家の作品も含めて、二十五絃筝のための作品は100曲を超えているとのことである。
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東海メールのワンステ・メンバー第一回練習 [ご紹介]

11月13日の練習
 前回ご紹介した、東海メールクワイアーの来年3月の定演で募集した「トルミスの作品」のワンステージ・メンバーの最初の練習が11月13日(日)にありました。曲は、トルミス作曲による「幼き日の思い出」と「大波の魔術」で、どちらも素晴らしい作品です。歌詞がエストニア語やラテン語なので、歌っていて言葉の意味は分からないのですが、事前に歌詞の内容と作曲上の音との関係を説明してもらうと、その情景が歌っている中で感じられ、歌っていて心の中で興奮してくるのが感じられ、嬉しくなります。実に素晴らしい2曲です。
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「幼き日の思い出」楽譜表紙
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「大波の魔術」楽譜表紙

本番の指揮者アンツ・ソーツ氏
 以前、東海メールがエストニアの合唱曲を並べ、アンツ・ソーツ氏の指揮を名古屋まで聴きに行ったことはありました。実は、オルフェイ・ドレンガーの創立150周年の記念行事が2003年にスウェーデンのウプサラで開催された時の「世界男声合唱シンポジューム」で、パネリストを務めていたアンツ・ソーツ氏と身近に接したことがありました。
 今回、東海メールクワイアーが自分たちの定演で、「トルミスの作品」のワンステージ・メンバーとして氏の指揮で歌えるという、素晴らしい機会を作ってくれました。氏とまたお近づき出来ることを、東海メールには、いくら感謝の言葉をささげても足りないくらいです。
 ただ気になるのは、今回のワンステージ・メンバーの募集に対して、参加するのは10数名。これまでの、邦人作曲家の作品を歌うワンステージ・メンバーの募集に比べると、極端に少ないと聞いて、日本の男声合唱団員の内向きの姿勢を見たような気がして、実に寂しい限りです。
 私は、邦人作曲家による最近の合唱曲に対して大きな疑問を感じています。いったい日本の合唱界をどんな方向に向けようとしているかまったくわからない前途視界不良の、歌詞は面白くも可笑しくも無く、メロディもハーモニーも美しくも無ければ感じるところも少ない、そんな作品が多いと思うのです。願わくば、島国根性から抜け出し、世界に目を広げ、海外の素晴らしい合唱作品に触れ、歌うことによって、合唱の面白さをもっともっと感じて欲しいと願っています。
世界は広い、合唱はもっと広い
 日本語なのにその歌詞が聴き取れないような合唱曲が多いのですから、日本語の合唱にこだわる必要もないでしょう。本当に美しいメロディやハーモニーを経験し、楽しみたいと思うなら、聴衆に聴いて欲しいと思うなら、そのような作品は世界中にはいくらでもあります。日本の合唱界も、もっともっと世界に目を広げようではありませんか。
<完>
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久しぶりに歌いたくなる機会が [ご紹介]

東海メールクワィアー
東海メールクワィアーはエライ、といつも思っている。
常任指揮者を置かずに、団として歌いたい作品があれば、最適な指揮者にお願いして演奏する。
これは、合唱団としては、理想の姿の一つと思う。

エストニアの合唱
その東海メールクワィアーが10年振りに、エストニアの合唱作品を歌うという。
我が国の合唱団が横文字の合唱曲をあまり歌わなくなった中で、エストニアの合唱作品を歌うことを演奏活動の一つの柱にしていることは、他団も見習ってほしい。

ワンステージ・メンバーの募集
来年3月に開催する第60回定期演奏会で、エストニア国立男声合唱団名誉指揮者アンツ・ソーツを招聘してエストニア合唱曲を歌うが、その上になんと、ワンステージ・メンバーの募集もやるという。
アンツ・ソーツの指揮でワンステージ・メンバーが演奏するのは、トルミス作曲「幼き日の思い出」と「大波の魔術」の2曲、どちらも素晴らしい曲だ。
これは見逃せない機会と思う。
ほぼ参加の方向で日程の調整等を始めている昨今である。
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ワンステ募集2017申込書
(完)
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野坂操壽リサイタル [ご紹介]

コーラスのお知らせではありません
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「野坂操壽リサイタル」のチラシ(表)

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チラシ(裏)

 私の敬愛する野坂操壽さんのリサイタルが2016年3月24日(木)に東京・浜離宮朝日ホールで開催された。これは、合唱や声楽の演奏ではまったくありません。
 野坂操壽(恵子)さんは、日本音楽集団で共に活動していた三木 稔と一緒に二十弦筝(実際は21弦)を完成させ1969年の第2回リサイタルで発表、その後三木さんの二十弦筝の作品を演奏したLPレコードを多数リリースしています。
 その後彼女は、二十弦筝を発展させた二十五弦筝を完成させると、伊福部 昭を始めとする多くの作曲家がこの楽器のための作品を書いています。今回の演奏会でも委嘱作品が2曲初演されます。

いろいろご縁がありまして・・・
 私が合唱団の関係で彼女を初めてお会いしたのは1967年です。その後、海外演奏旅行でご一緒していただき、身近で聴いた彼女の演奏の素晴らしさに感銘しました。それ以来、彼女のリサイタルを毎回聴きにゆくように努め、また、古典の筝曲や三木さんが作曲した筝や二十弦筝の曲を収めた彼女のLPレコードを集めるように努めて来ました(彼女の演奏は、かつてはLPレコードはコロンビア・レコードから、現在は、CDがカメラータ・トウキョウからリリースされています。私は主に古典を演奏しているLPを10枚以上集めています。)。
 今回のリサイタルのマネージメントはカメラータ・トウキョウです。この会社は、ご存知の方もおられると思いますが、同志社グリーのメンバーで、学生時代には団内カルテットModernairsで歌っていた井阪 紘さんが、ビクター・レコードのディレクターを経た後に設立しました。 
 私が学生時代、当時唯一の合唱雑誌「合唱界」に井阪さんがカルテットの楽譜(Moderairs Song Book Vol. 1、表紙の色から通称「赤本」)を出版したと投稿したのを見て、私らのカルテットでも歌いたいと思い、その楽譜を4部送ってもらったのがお付き合いの始まりでした。(このModerairs Song Bookは多分、フォークソングを集めた Vol. 4まで出ていて、私は一般に頒布されたVol. 1~3を原本で、その後、井坂さんの指揮で歌っていたクローバークラブのメンバーからVol. 4を知って、コピーさせてもらいました。)

ということで、合唱とも関係が・・・
 ここまで書くと、野坂さんがまんざら合唱と無関係ではないと思えてきませんか?そう、合唱に関係した方々と彼女との交流の始まりは古く、親しくしていたことが偲ばれます。

野坂さんってどんな人?
 (ある新聞の紹介記事より)2002年 「第18回野坂惠子リサイタル」で芸術選奨文部科学大臣賞、2006年 中島健蔵現代音楽賞、2011年 芸術院賞、2015年 文化功労者、その他受賞歴多数。
 現在、二代目野坂操壽として生田流筝曲松の実会を主宰。
(終)
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バーバーショップ・ハーモニーについて、高校生がこんな論文を書くか! [ご紹介]

たまたま見つけた論文
 ネット・サーフィンをやっていたら、関西学院高等部の生徒が書いたバーバーショップ・ハーモニーに関する論文「バーバーショップスタイルは何を大切にしているか ~エンターテインメントと合唱の融合~」を見つけた。http://gleepotter.up.seesaa.net/image/E38390E383BCE38390E383BCE382B7E383A7E38383E38397E383BBE382B9E382BFE382A4E383ABE381AFE4BD95E38292E5A4A7E58887E381ABE38197E381A6E38184E3828BE3818B.pdf

高校生が書くか!
 読んでみるとこれがなかなか見事な論文で、バーバーショップ・ハーモニーの簡にして要を得た解説であり、日本の合唱界に対しての提案も含まれている。
彼は現在、大学生で合唱の指揮をしているようだが、日本の合唱界に対しての提案は、一般人から見放されている日本の合唱界を実感している者として、納得出来る論である。
 まあ、このあたりは議論のあるところだが、参考までにお読みになってはいかがだろうか?
(完)
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第15回東京男声合唱フェスティバル [私の意見]

  恒例の東京男声合唱フェスティバルが、今年(2015年)も浜離宮朝日ホールで11月8日(日)に開催された。なんと62団体(!)が参加、加えて、招待演奏と公募合唱団の演奏もあり、午前10時半から午後8時40分まで、およそ10時間という長丁場のフェスティバルになった。(役員の皆さん、特に、ステージ上で譜面台を運んだり、永年出演の記念品を渡しておられた小柄の女性は、終始一生懸命に働いていて、客席に居た多くの人も感じるところがあったと思う。本当にご苦労さまでした。)
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第15回東京男声合唱フェスティバルのプログラム表紙

素晴らしい演奏がいくつもあったが、個別の評はさておいて、全体的な感想を順不同で列挙してみる。

・ 男フェスは一般の人も楽しめるか?
 50年以上男声合唱を歌ってきて、10年前から主に聴くほうに廻った個人としての私。その私が聴いても詰まらない合唱の演奏が多いのだから、一般人が楽しめるとは到底考えられない。
そもそも、合唱が日本国で市民権を得られる時代がやってくるのだろうか、ということがずっと気になっているが、日本の合唱界がよほどの変革をしない限り、当分無理だろう。例えば、今回の会場に居たのは、出演した合唱団の団員とその知り合いプラス合唱愛好家だけで、自分の出番が終れば会場から居なくなる人が多い。だから、朝一番とか、休憩時間後の客席の空きを見ると、演奏団体が気の毒になった。
このところ、朝日新聞が力を入れるようになったが、吹奏楽(ブラスバンド)の近年の活動振りを見聞きするにつけ、合唱界、特に男声合唱はますます、仲間内だけの世界に引き篭もるような傾向にあると思うが、これは私の思い過ごしであろうか?(「それで何が悪い」と言う声が聞こえてくるように感じられる。連盟自体が危機感も何も持っていないのだから希望は無い。そもそも、朝日新聞社の建物内に部屋を借りなければ運営出来ないらしい連盟にも、もう少し考えて欲しいと思う。)

・ 無差別級の出演順で良いか?
 高齢化しても生き生きと合唱活動を続けているのは、生きがい、楽しみ、健康、仲間づくり等、とても大事なこととは、私も「末期高齢者」に足を突っ込んでいるので、分っているつもりだ。しかし、平均年齢が70歳近い合唱団と、若くて、声の良い合唱団との演奏順が「順不同」というのは、聴いていて少々気の毒になる。引き立て役ではないのだからせめて、演奏をグループ別けして、それぞれにに楽しい名前、例えば、「ドッコイ生き甲斐」、「若造も上手いでしょう」、「仕事も合唱も」、「学業を疎かにはしていません」、「僕達も予備軍」などと名付けて、区分けしたらと思う。ここまで書いて気が付いたのだが、皆が若い方のグループに出たいと思うかもしれないから、難しいかな?

・ ようやく清水・多田の時代は去ったか?
 男フェスと言えば、いつも、清水・多田の作品の演奏が多いことにクレームを付け続けてきた。今年は、清水作品が2団体で4曲、多田作品が9団体で12曲歌われた。相変わらず多田作品が多いように感じられるが、「時代が去った」とは言えなくなったようだ。
それは、近年の作曲家の作品は概して、歌詞は聴いて面白くも可笑しくも無く、メロディは美しいとはとても言えない。そんな作品でも、少人数の、声もテクニックもある合唱団が絶妙に歌えば、その演奏に感心することはあるが、多くの「普通」の一般合唱団が歌っても何も面白くない。そんな時に清水・多田作品を聴くと、昔歌った人に限らず、今の若い人が聴いても、歌詞の内容が良くて、かつ、歌詞を聴き取れ、また、メロディはつい口ずさみたくなる美しさと分りやすさ、これらに、ほっとする。(最近の多田作品の歌詞は除く。)
今回のフェスで歌われたある作曲家の作品を7合唱団、別の二人の作曲家の作品をそれぞれ4合唱団が歌っていたが、これは好みの問題、とバッサリやられそうだが、その歌詞に何か心に感じながら歌っているとは思えなかった。

・ 若い人の演奏の素晴らしさにひと言
 私は朝から演奏のすべてを聴いたが、若い人の少人数から大人数の合唱団まで、その声とハーモニーの素晴らしさには心から感服した。来年の招待合唱団の投票でも、同率2位の3合唱団も1位の合唱団もどれもが若く、かつ、1位は15人と言う少人数。しかし、1位の合唱団に言いたいのは、それだけの才能を持っているなら、単に絶妙なハーモニーを表現できるテクニックを誇示するだけでなく、もっと聴衆を喜ばせ、楽しませてくれるような内容の曲を選んで聴かせて欲しいものだ。あの2曲の面白くも可笑しくも無い歌詞を聴いていて、君たちの心を伝えたい曲とは、とても感じられなかった。

(上記内容に関係して)
 歌っていれば満足、と言う合唱団があると思えば、どうだ、こんなに難しい歌も歌えるんだぞ、とテクニックを前面に出して聴かせる合唱団もある。ただ、ステージでの演奏は、聴かせるというのは一面で、聴いて楽しむと言う聴衆の側もあることを忘れてもらっては困る。テクニックを売るのも肯定できるが、きれいなメロディと、心に沁みるか、聴いて楽しくなるような歌詞、それを伝えるための歌い手の表情、それらは言い換えれば、舞台芸術は「エンターテインメント」性が大切である、ということも心して欲しい。

・ 指揮者にお願い
 曲の解釈など、指揮者の勝手と言えば言えないことも無いが、あまりにも違和感の大きい演奏には辟易する。そんな演奏が今回の男フェスでもいくつかあった。
そもそも合唱曲には、①まったくの創作曲の初演、②創作曲だが作られてから長い時間が経って歌い方のスタイルがほぼ固まった曲、③元歌があるとか有名なグループの持ち歌で聴く人がすでにイメージを持っている曲など、いろいろある。①の場合はともかく、ほとんどの人が「名演奏」を聴いて知っている②や③の曲の場合、みなが持っているそのイメージとあまりにもかけ離れた指揮は、「独創」か「無知」かである。指揮者は、どんな解釈をしても良いが、せめて、過去の名演奏を知った上で、持てる才能を発揮して、新しい解釈を聴かせてもらいたいものだ。

・ 日本の聴衆の無愛想さは格別
 いくつかの合唱団がコーレオグラフィ(振り)を工夫して、聴衆を喜ばせ、楽しませようとしていた。日本の合唱界ではまれなことなので、大いに楽しませていただいた。しかし、ふと周囲を見回したら、笑顔の人は皆無で、みな真面目な顔をして見ている。
聴いて、見て、楽しかったら顔に出せば良いのに、そして、聴衆が楽しんでいることをステージから見たら、振りにますます気持ちを入れて、楽しませようとするだろうに、どうしてだろう。
第一の理由は、日本の合唱界では、おかあさんコーラスを除いて、直立不動で、表情も変えずに歌うのが良い(?)という思い込みがあるようだ。それでいて、演奏が終ったら大きな拍手が出たのだから、内心では共感していたのだろう。
(追加)歌っていて上着の下に着ていた(前だけの)シャツをパッと外して胸部を露出したら、笑いと拍手が出た。その努力を認めることにやぶさかでは無いが、同じ仕掛けで、シャツの色を変化させるほうがよほどスマートで楽しい。(TVで一部のお笑い芸人がやっているが、肉体を露出するのはすぐ笑いを取れるが、一番レベルの低い演出と考えるべきだろう。)

(気が付いたことがあれば、後で追記する)

  なお、私のように「歯に衣を着せぬ」発言をすると、大きな反発を食うことが多いのですが、日本の合唱を良くしようと考えての発言とご理解下さって、皆さんのご意見をいただければ幸いです。
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「おとうさんコーラス全国大会」があったら・・・ [私の意見]

おかあさんコーラス全国大会が終って
 9月7日の朝日新聞夕刊によれば、見出しに「圧巻のパフォーマンス」とあって、おかあさん全国大会の模様が書かれている。
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朝日新聞夕刊(2015.09.07)

 この記事を読んで感じたのだが、この全国大会に相当するであろう男声の大会、1月に「じゃむか関西」と7月に「全日本男声合唱フェスティバル」が開催されたことで、この二つは、日本における実質的な「おとうさんコーラス全国大会」ではないか。 そう思ったところから、いろいろ考えた。

おとうさんコーラス大会はどんな評を得るだろうか?
 おかあさんコーラス大会は、日本の合唱界では珍しいほど、毎年、いろいろな歌唱と表現(パフォーマンス)で評価されていることは、後援している朝日新聞の記事を読んでいると、よく分る。そう、お母さんたちは、コーラスを幅広く捉え、単に、良い声、良いハーモニーに籠もらないで、歌唱とパフォーマンスを組み合わせて、自分たちの歌をどうやって聴衆に伝えるか、を一生懸命に考えているのだ。
 そんな場で男声合唱団が歌ったら、一体どんな評を得るだろうか?
 敗戦後の娯楽の少ない時代には、それらしいハーモニーを付けて合唱するだけで、喝采を受けた時もあった。それから時代が変わっても、レパートリーも、歌う姿勢もあまり変わらないのが男声合唱の世界だ。
 今でもただ突っ立って歌う、聴衆に対してまったく愛想の無い姿勢、さらに戦後すぐの状況より悪くなったのは、曲は難しくなり、メロディ・ラインが明確で無く、日本語の歌詞がほとんど聴き取れなくなったことだ。
 しかし、歌い手側はそんなことにはまったく気付かずに(気にせずに)、ただ「突っ立って」歌っているというのはどうしてだろう。そんな男声合唱に、どんな評価がなされるだろうか?考えただけでも、良い評など期待出来ないではないか。

残念ながら、おとうさんの負け!
 昭和20年代から30年代の、日本の大学男声合唱団華やかなりしころの男声合唱、日本の男声合唱団はそのイメージの延長の中で、変わること無くこれまでやって来たようだ。しかし、一般男声合唱団は当時に比べれば衰退の道をたどってきた。大学男声合唱団が衰退したので、一般男声合唱団に対する新卒者の補給も少なくなったのだ。一般男声合唱団は、高齢メンバーによって団員数は維持できても、さらなる高齢化に逆らえず、したがって、演奏のレベルを維持することは難しい。演奏するだけでも精一杯なのだからく、それ以上にパフォーマンスを考えるなどは無理な注文になって来ているのかもしれない。このままでは、おとうさんの負け、である。

対策は?
 指導者も含めて、一般男声合唱団の意識改革を待たなければなるまい。
 ブランドのある大学男声合唱団が、人数的には復旧したように見えるが、彼らもただ突っ立って歌っているだけだから、参考にはならない。
 一方、世の中を見れば、来日するヘルシンキ大学男声合唱団、スウェーデン王立男声合唱団(オルフェイ・ドレンガー)、エール大学ウイッフェンプーフス合唱団など、演奏会では、素晴らしい演奏と共に、いろいろなパフォーマンスを見せてくれる。ところが、見て良いとは思っても、感心はしても、日本人は真似しようとしない。「他人は他人、自分は自分」なのだろうが、本当にそうだろうか?良いと思ったら真似したら良いではないか。もう一つ最近気になるのは、横文字の曲を歌うことがめっきり減っていることだ。高齢化で横文字が苦手、という事情が分らないでもないが、大学合唱団も毛嫌いしている雰囲気があるのは、どうしてだろう。良い曲がたくさんあるのだから、指導者は是非歌うように勧めて欲しい。
 少なくとも、自分で聴いて、見て、良いと思ったことは、自分たちの聴衆のためにやってみてはどうだろうか。
 
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三木稔作曲「レクイエム」が演奏される [私の意見]

三木さんの「レクイエム」が演奏される
 カミサンが聴きに行った演奏会で配布され、持ち帰ったチラシの中に、私の大好きな三木稔作曲「レクイエム」が、今年11月に、ある合唱団の演奏会で演奏されると知って、心から嬉しく思った。  この曲は、もっともっと歌われて良いと思うのに、歌われる回数が何故か、ごく少ないのだ。

男声?混声?
 混声の、ソプラノ・ソロの楽章が追加された最新の版をオケ伴で歌ったことがあるが、この作品はやはり、男声合唱のハーモニーが最高で、混声ではまるで別の曲に感じられる。男声版の演奏回数があまりにも少ないので、三木さんもつい、混声合唱団からの希望に応えて混声版を作ったのかもしれないが、その結果は、まったく別の曲になってしまった、と言っても良いほどに変ってしまったのである。

伴奏は?
 加えて、問題は伴奏である。
 私はこれまで、オケ伴付き(オリジナル)と、2台のピアノによる伴奏で、男声で歌ったことがある。また、前記のように、オケ伴付きの混声も歌ったことがある。
 さらに、2台のエレクトーンと打楽器による伴奏の演奏(北村協一指揮、男声)を聴いたことがある。
 結論から言えば、最悪は「2台のピアノによる伴奏」である。
 理由は、ピアノは、いわば、打楽器であり、管楽器の音の伸びの感じを出せないこと、また、打楽器のあの迫力はピアノではとても表現できないことである。
 北村先生が、2台のエレクトーンだけでは駄目で、打楽器を加えなければ指揮をしない、と頑張って実現したのは指揮者の良心と言わざるを得ないし、その演奏は見事なほど大成功だった。

混声合唱団の皆様にお願い
 三木さんの作品は、叙情性、メロディの美しさ、合唱に対する伴奏の扱い、どれを取っても見事なものである。だからこそ、彼自身が、市販されている男声版でピアノ伴奏にしているのは、あれは練習用の伴奏譜である、と言っているのを聞いたことがある。
  ピアノだけの伴奏では、前に書いたように、管楽器のように音を伸ばせない、打楽器の迫力を表現できない、したがって、2台のピアノによる伴奏では、三木さんの別の「レクイエム」の演奏になってしまうのだ。
 まあ、それを承知の上でやるのなら(多分、そうだろうが)、これ以上言うことは無い。ただ、合唱団員の皆さんには、オケ伴の男声「レクイエム」を是非聴いていただき、どう違うかを感じていただきたい、と願うだけである。
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