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全日本合唱連盟創立70周年に際して(提言) [私の意見]

全日本合唱連盟創立70周年式典
 2017年5月20日(土)に東京で掲記の記念式典が開催され、新聞記事(下記)によると、第一回合唱コンクールに参加した関学グリーなど4団体が歌声を披露したそうだ。実におめでたいことである。
20170521合唱連盟70周年朝日朝刊.jpg
朝日新聞記事(2017.5.21.)

 合唱連盟のHPによれば、東京からは、東京ウィメンズ・コーラル・ソサエティと松原混声合唱団が招かれている。第一回合唱コンクールに参加した東京リーダーターフェルは招かれていないが、このところコンクールに参加していないので、連盟への貢献と言う観点からは当然か。

合唱連盟の意識
 合唱連盟のHPには、「わが国は、世界の中で最も合唱の盛んな国のひとつです。合唱団の数は、小・中・高校、大学、職場、おかあさんコーラス、一般と、あわせて数万に達します。これらの合唱団に所属する人たちはみな、合唱を楽しむことによってひろく音楽に親しみ、わが国の音楽文化のまことに大きな基盤を築きあげているのです。合唱音楽の普及と向上、合唱団の育成と指導、そして音楽文化の発展に寄与することを目的とします。」とある。

この意識に対して
 合唱連盟のHPに書かれた内容には、なんか違和感がある。
 まず、誇らしげに「わが国は、世界の中で最も合唱の盛んな国のひとつです。」とあるが、その意味は合唱団の数と合唱人口のようだ。
 確かに、「小・中・高校」は、熱心な教師がコンクール参加を目指し、ある数の合唱団が維持されている。大学は、学生運動盛んだった、衰退の時期からはずいぶん復旧したように見えるが、1960年代の人数と熱気にはまだまだ戻っていない。職場の合唱団は、昔に比べればそんなに多くはない。おかあさんコーラスは元気が良く、演奏スタイルが現代的で、これは盛んと言える。ところが一般合唱団は、一部の若手の団員が集まった合唱団は別として、全般的に高齢化が止まらず、行く末が案じられる状況である。
 また、「合唱団に所属する人たちはみな、合唱を楽しむことによってひろく音楽に親しみ、」との表現にも違和感がある。合唱団内で周りを見回しても、歌うこととその後の飲み会を楽しんではいるが、来日した素晴らしい合唱団の演奏を聴いたり、合唱以外にもひろく音楽に親しんでいる団員がたくさんいる、とは、とても考えられないからだ。

記念式典での理事長の挨拶にも違和感がある
 記念式典での岸信介理事長が、「合唱の普及にさらに努め、世界の平和に貢献したい」とあいさつした、と新聞記事にあることも気になった。それは、日本の合唱界の現状に、何ら疑問を持っていないような発言に聞こえるからだ。
 現在の日本の合唱界は、歌っている人たちだけの自己満足で、聴衆はまったく満足していないことには気が付いておられないようだ。(おかあさんコーラスを除いて)訳の分からない、歌詞が聴き取れない合唱作品を、楽しいのか、嬉しいのか、面白いのか分からないような、無表情のまま棒立ちで歌うからだ。そんな合唱演奏を、演奏会場に来た市民は聴かせられているのだ。
 だから、理事長が言う「合唱の普及」とは、単に合唱団の数とか、合唱団員の人数が増やすことだけを言っているようで、合唱好きの一般の人たちを増やすことは考えておられないように聞こえる。エストニアほどではなくても、合唱が一般国民に親しまれ、愛されることを目指すことは、お考えの中に入っていないようだ。
 「世界の平和に貢献したい」との発言は、世界平和に関してどのような思いを持ち、どんな形で活動したいと考えているのか、不明である。そのような「言葉遊び」をするより、合唱がより一般市民に親しまれ、愛されることを目指し、そのためにはどんな方法があり、どんな手順で進めるのが良いのか、を考える方がよほど生産的ではあるまいか。

合唱連盟の目標は?
 上に書いたことは、現在の合唱界から見れば少数意見かもしれない。しかし、心から合唱を愛する市民が増え、その中から合唱団に入る人が出てくれば、より市民に近い合唱活動をする合唱団が増えるのではないだろうか。そして、それこそが、言葉通りの「合唱の普及」になり、連盟の将来的な目標になるのではないか、と思うのだが、いかがだろうか。
(終)
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第15回東京男声合唱フェスティバル [私の意見]

  恒例の東京男声合唱フェスティバルが、今年(2015年)も浜離宮朝日ホールで11月8日(日)に開催された。なんと62団体(!)が参加、加えて、招待演奏と公募合唱団の演奏もあり、午前10時半から午後8時40分まで、およそ10時間という長丁場のフェスティバルになった。(役員の皆さん、特に、ステージ上で譜面台を運んだり、永年出演の記念品を渡しておられた小柄の女性は、終始一生懸命に働いていて、客席に居た多くの人も感じるところがあったと思う。本当にご苦労さまでした。)
男声フェス表紙s.jpg
第15回東京男声合唱フェスティバルのプログラム表紙

素晴らしい演奏がいくつもあったが、個別の評はさておいて、全体的な感想を順不同で列挙してみる。

・ 男フェスは一般の人も楽しめるか?
 50年以上男声合唱を歌ってきて、10年前から主に聴くほうに廻った個人としての私。その私が聴いても詰まらない合唱の演奏が多いのだから、一般人が楽しめるとは到底考えられない。
そもそも、合唱が日本国で市民権を得られる時代がやってくるのだろうか、ということがずっと気になっているが、日本の合唱界がよほどの変革をしない限り、当分無理だろう。例えば、今回の会場に居たのは、出演した合唱団の団員とその知り合いプラス合唱愛好家だけで、自分の出番が終れば会場から居なくなる人が多い。だから、朝一番とか、休憩時間後の客席の空きを見ると、演奏団体が気の毒になった。
このところ、朝日新聞が力を入れるようになったが、吹奏楽(ブラスバンド)の近年の活動振りを見聞きするにつけ、合唱界、特に男声合唱はますます、仲間内だけの世界に引き篭もるような傾向にあると思うが、これは私の思い過ごしであろうか?(「それで何が悪い」と言う声が聞こえてくるように感じられる。連盟自体が危機感も何も持っていないのだから希望は無い。そもそも、朝日新聞社の建物内に部屋を借りなければ運営出来ないらしい連盟にも、もう少し考えて欲しいと思う。)

・ 無差別級の出演順で良いか?
 高齢化しても生き生きと合唱活動を続けているのは、生きがい、楽しみ、健康、仲間づくり等、とても大事なこととは、私も「末期高齢者」に足を突っ込んでいるので、分っているつもりだ。しかし、平均年齢が70歳近い合唱団と、若くて、声の良い合唱団との演奏順が「順不同」というのは、聴いていて少々気の毒になる。引き立て役ではないのだからせめて、演奏をグループ別けして、それぞれにに楽しい名前、例えば、「ドッコイ生き甲斐」、「若造も上手いでしょう」、「仕事も合唱も」、「学業を疎かにはしていません」、「僕達も予備軍」などと名付けて、区分けしたらと思う。ここまで書いて気が付いたのだが、皆が若い方のグループに出たいと思うかもしれないから、難しいかな?

・ ようやく清水・多田の時代は去ったか?
 男フェスと言えば、いつも、清水・多田の作品の演奏が多いことにクレームを付け続けてきた。今年は、清水作品が2団体で4曲、多田作品が9団体で12曲歌われた。相変わらず多田作品が多いように感じられるが、「時代が去った」とは言えなくなったようだ。
それは、近年の作曲家の作品は概して、歌詞は聴いて面白くも可笑しくも無く、メロディは美しいとはとても言えない。そんな作品でも、少人数の、声もテクニックもある合唱団が絶妙に歌えば、その演奏に感心することはあるが、多くの「普通」の一般合唱団が歌っても何も面白くない。そんな時に清水・多田作品を聴くと、昔歌った人に限らず、今の若い人が聴いても、歌詞の内容が良くて、かつ、歌詞を聴き取れ、また、メロディはつい口ずさみたくなる美しさと分りやすさ、これらに、ほっとする。(最近の多田作品の歌詞は除く。)
今回のフェスで歌われたある作曲家の作品を7合唱団、別の二人の作曲家の作品をそれぞれ4合唱団が歌っていたが、これは好みの問題、とバッサリやられそうだが、その歌詞に何か心に感じながら歌っているとは思えなかった。

・ 若い人の演奏の素晴らしさにひと言
 私は朝から演奏のすべてを聴いたが、若い人の少人数から大人数の合唱団まで、その声とハーモニーの素晴らしさには心から感服した。来年の招待合唱団の投票でも、同率2位の3合唱団も1位の合唱団もどれもが若く、かつ、1位は15人と言う少人数。しかし、1位の合唱団に言いたいのは、それだけの才能を持っているなら、単に絶妙なハーモニーを表現できるテクニックを誇示するだけでなく、もっと聴衆を喜ばせ、楽しませてくれるような内容の曲を選んで聴かせて欲しいものだ。あの2曲の面白くも可笑しくも無い歌詞を聴いていて、君たちの心を伝えたい曲とは、とても感じられなかった。

(上記内容に関係して)
 歌っていれば満足、と言う合唱団があると思えば、どうだ、こんなに難しい歌も歌えるんだぞ、とテクニックを前面に出して聴かせる合唱団もある。ただ、ステージでの演奏は、聴かせるというのは一面で、聴いて楽しむと言う聴衆の側もあることを忘れてもらっては困る。テクニックを売るのも肯定できるが、きれいなメロディと、心に沁みるか、聴いて楽しくなるような歌詞、それを伝えるための歌い手の表情、それらは言い換えれば、舞台芸術は「エンターテインメント」性が大切である、ということも心して欲しい。

・ 指揮者にお願い
 曲の解釈など、指揮者の勝手と言えば言えないことも無いが、あまりにも違和感の大きい演奏には辟易する。そんな演奏が今回の男フェスでもいくつかあった。
そもそも合唱曲には、①まったくの創作曲の初演、②創作曲だが作られてから長い時間が経って歌い方のスタイルがほぼ固まった曲、③元歌があるとか有名なグループの持ち歌で聴く人がすでにイメージを持っている曲など、いろいろある。①の場合はともかく、ほとんどの人が「名演奏」を聴いて知っている②や③の曲の場合、みなが持っているそのイメージとあまりにもかけ離れた指揮は、「独創」か「無知」かである。指揮者は、どんな解釈をしても良いが、せめて、過去の名演奏を知った上で、持てる才能を発揮して、新しい解釈を聴かせてもらいたいものだ。

・ 日本の聴衆の無愛想さは格別
 いくつかの合唱団がコーレオグラフィ(振り)を工夫して、聴衆を喜ばせ、楽しませようとしていた。日本の合唱界ではまれなことなので、大いに楽しませていただいた。しかし、ふと周囲を見回したら、笑顔の人は皆無で、みな真面目な顔をして見ている。
聴いて、見て、楽しかったら顔に出せば良いのに、そして、聴衆が楽しんでいることをステージから見たら、振りにますます気持ちを入れて、楽しませようとするだろうに、どうしてだろう。
第一の理由は、日本の合唱界では、おかあさんコーラスを除いて、直立不動で、表情も変えずに歌うのが良い(?)という思い込みがあるようだ。それでいて、演奏が終ったら大きな拍手が出たのだから、内心では共感していたのだろう。
(追加)歌っていて上着の下に着ていた(前だけの)シャツをパッと外して胸部を露出したら、笑いと拍手が出た。その努力を認めることにやぶさかでは無いが、同じ仕掛けで、シャツの色を変化させるほうがよほどスマートで楽しい。(TVで一部のお笑い芸人がやっているが、肉体を露出するのはすぐ笑いを取れるが、一番レベルの低い演出と考えるべきだろう。)

(気が付いたことがあれば、後で追記する)

  なお、私のように「歯に衣を着せぬ」発言をすると、大きな反発を食うことが多いのですが、日本の合唱を良くしようと考えての発言とご理解下さって、皆さんのご意見をいただければ幸いです。
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「おとうさんコーラス全国大会」があったら・・・ [私の意見]

おかあさんコーラス全国大会が終って
 9月7日の朝日新聞夕刊によれば、見出しに「圧巻のパフォーマンス」とあって、おかあさん全国大会の模様が書かれている。
朝日お母さんコーラスs.jpg
朝日新聞夕刊(2015.09.07)

 この記事を読んで感じたのだが、この全国大会に相当するであろう男声の大会、1月に「じゃむか関西」と7月に「全日本男声合唱フェスティバル」が開催されたことで、この二つは、日本における実質的な「おとうさんコーラス全国大会」ではないか。 そう思ったところから、いろいろ考えた。

おとうさんコーラス大会はどんな評を得るだろうか?
 おかあさんコーラス大会は、日本の合唱界では珍しいほど、毎年、いろいろな歌唱と表現(パフォーマンス)で評価されていることは、後援している朝日新聞の記事を読んでいると、よく分る。そう、お母さんたちは、コーラスを幅広く捉え、単に、良い声、良いハーモニーに籠もらないで、歌唱とパフォーマンスを組み合わせて、自分たちの歌をどうやって聴衆に伝えるか、を一生懸命に考えているのだ。
 そんな場で男声合唱団が歌ったら、一体どんな評を得るだろうか?
 敗戦後の娯楽の少ない時代には、それらしいハーモニーを付けて合唱するだけで、喝采を受けた時もあった。それから時代が変わっても、レパートリーも、歌う姿勢もあまり変わらないのが男声合唱の世界だ。
 今でもただ突っ立って歌う、聴衆に対してまったく愛想の無い姿勢、さらに戦後すぐの状況より悪くなったのは、曲は難しくなり、メロディ・ラインが明確で無く、日本語の歌詞がほとんど聴き取れなくなったことだ。
 しかし、歌い手側はそんなことにはまったく気付かずに(気にせずに)、ただ「突っ立って」歌っているというのはどうしてだろう。そんな男声合唱に、どんな評価がなされるだろうか?考えただけでも、良い評など期待出来ないではないか。

残念ながら、おとうさんの負け!
 昭和20年代から30年代の、日本の大学男声合唱団華やかなりしころの男声合唱、日本の男声合唱団はそのイメージの延長の中で、変わること無くこれまでやって来たようだ。しかし、一般男声合唱団は当時に比べれば衰退の道をたどってきた。大学男声合唱団が衰退したので、一般男声合唱団に対する新卒者の補給も少なくなったのだ。一般男声合唱団は、高齢メンバーによって団員数は維持できても、さらなる高齢化に逆らえず、したがって、演奏のレベルを維持することは難しい。演奏するだけでも精一杯なのだからく、それ以上にパフォーマンスを考えるなどは無理な注文になって来ているのかもしれない。このままでは、おとうさんの負け、である。

対策は?
 指導者も含めて、一般男声合唱団の意識改革を待たなければなるまい。
 ブランドのある大学男声合唱団が、人数的には復旧したように見えるが、彼らもただ突っ立って歌っているだけだから、参考にはならない。
 一方、世の中を見れば、来日するヘルシンキ大学男声合唱団、スウェーデン王立男声合唱団(オルフェイ・ドレンガー)、エール大学ウイッフェンプーフス合唱団など、演奏会では、素晴らしい演奏と共に、いろいろなパフォーマンスを見せてくれる。ところが、見て良いとは思っても、感心はしても、日本人は真似しようとしない。「他人は他人、自分は自分」なのだろうが、本当にそうだろうか?良いと思ったら真似したら良いではないか。もう一つ最近気になるのは、横文字の曲を歌うことがめっきり減っていることだ。高齢化で横文字が苦手、という事情が分らないでもないが、大学合唱団も毛嫌いしている雰囲気があるのは、どうしてだろう。良い曲がたくさんあるのだから、指導者は是非歌うように勧めて欲しい。
 少なくとも、自分で聴いて、見て、良いと思ったことは、自分たちの聴衆のためにやってみてはどうだろうか。
 
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三木稔作曲「レクイエム」が演奏される [私の意見]

三木さんの「レクイエム」が演奏される
 カミサンが聴きに行った演奏会で配布され、持ち帰ったチラシの中に、私の大好きな三木稔作曲「レクイエム」が、今年11月に、ある合唱団の演奏会で演奏されると知って、心から嬉しく思った。  この曲は、もっともっと歌われて良いと思うのに、歌われる回数が何故か、ごく少ないのだ。

男声?混声?
 混声の、ソプラノ・ソロの楽章が追加された最新の版をオケ伴で歌ったことがあるが、この作品はやはり、男声合唱のハーモニーが最高で、混声ではまるで別の曲に感じられる。男声版の演奏回数があまりにも少ないので、三木さんもつい、混声合唱団からの希望に応えて混声版を作ったのかもしれないが、その結果は、まったく別の曲になってしまった、と言っても良いほどに変ってしまったのである。

伴奏は?
 加えて、問題は伴奏である。
 私はこれまで、オケ伴付き(オリジナル)と、2台のピアノによる伴奏で、男声で歌ったことがある。また、前記のように、オケ伴付きの混声も歌ったことがある。
 さらに、2台のエレクトーンと打楽器による伴奏の演奏(北村協一指揮、男声)を聴いたことがある。
 結論から言えば、最悪は「2台のピアノによる伴奏」である。
 理由は、ピアノは、いわば、打楽器であり、管楽器の音の伸びの感じを出せないこと、また、打楽器のあの迫力はピアノではとても表現できないことである。
 北村先生が、2台のエレクトーンだけでは駄目で、打楽器を加えなければ指揮をしない、と頑張って実現したのは指揮者の良心と言わざるを得ないし、その演奏は見事なほど大成功だった。

混声合唱団の皆様にお願い
 三木さんの作品は、叙情性、メロディの美しさ、合唱に対する伴奏の扱い、どれを取っても見事なものである。だからこそ、彼自身が、市販されている男声版でピアノ伴奏にしているのは、あれは練習用の伴奏譜である、と言っているのを聞いたことがある。
  ピアノだけの伴奏では、前に書いたように、管楽器のように音を伸ばせない、打楽器の迫力を表現できない、したがって、2台のピアノによる伴奏では、三木さんの別の「レクイエム」の演奏になってしまうのだ。
 まあ、それを承知の上でやるのなら(多分、そうだろうが)、これ以上言うことは無い。ただ、合唱団員の皆さんには、オケ伴の男声「レクイエム」を是非聴いていただき、どう違うかを感じていただきたい、と願うだけである。
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「じゃむか関西」演奏会 [私の意見]

新年のご挨拶 A Happy New Year!
 明けましておめでとうございます。
 昨年10月のODの記事以降、ご無沙汰を続けてきたことをお詫びしたい。なにせ文章を書くことが多くて、手が回らないと言う事情があったため、ということでご勘弁ねがいたい。

今年もJAMCAの演奏会がある
JAMCA Concert in 2015, on January 25 (Sun) in Itami Hall
 今月の1月25日(日)に、伊丹ホールで「じゃむか関西」と銘打った演奏会がある。JAMCAの演奏会にもこのところ足が遠のいていたので、久しぶりに参加することにした。
じゃむか関西チラシ.jpg
「じゃむか関西」チラシ

「じゃむか関西」
"JAMCA Kansai" Concert
 この演奏会は、グループ別合同「鈴木憲夫:永久二(とこしなに)」(指揮:樋本英一)、「黒人霊歌」(指揮:広瀬康夫)、「ワーグナー:使徒の愛餐(オーケストラ付き)」(指揮:船曳圭一郎)と、全体合同「三善晃:唱歌の四季」(指揮:安井 直人)の4ステージからなる。
 平均すればほぼ2年ごとに開催されるJAMCA演奏会だから、男声合唱の祭典みたいなことをやるのが良いと私は思うのだが、「黒人霊歌」を除けば、全体的には「真面目な」演奏会を目指すらしく見えて、一般の聴衆を相手にする演奏会にしては少々重いように感じられるのは私だけだろうか?
 一方、全体合同の「唱歌の四季」は、皆に良く知られた愛らしい唱歌ばかり。ところがこれを、約400人という大人数で演奏する。どんな工夫をして、どう聴かせようとするのか、とても楽しみである。(「愛らしく」歌う自信が無いので、私は全体合同を歌わないことにした。)

「黒人霊歌」
One of Four Stages, "Traditionals"
 上のように考えると、私が参加出来そうなのは「黒人霊歌」(注)しか無い。そんなわけで、その練習のため神戸に昨年の10月と12月に、そして、今月もう一度行く。よく知られた曲ばかりだが、残念なことに、歌ったことのある編曲は1曲だけ。さらに、曲によっては私が経験したことも無いほど速く歌うので、(指揮者から強制はされないが)私としては暗譜するしかない。ということで、今月25日の本番がとても楽しみである。
(注) アメリカでは「差別」の問題から、"Negro Spirituals”とは言わず、"Traditional
Songs”とか"African-American Song"と言うようになっている。日本語には未だ適当な呼び名が無い。
(終)
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たかが合唱、されど合唱! [私の意見]

どんな気持ちで合唱活動をしていますか?
 ミッションスクールの中学校時代に音楽教師から(低い声を認められ、中学校の合唱団に引きずり込まれた。確かに男声合唱団だが中学生の合唱団では面白くも可笑しくも無く、兄貴が歌っている大学の男声合唱団とはあまりにも違い過ぎて魅力が無く、かつ、低声部がさっぱり低くないので面白くなく、教師と喧嘩して止めてしまった。
 県立の男子高校に入ったら、音大出のテナーが組担任で、彼の指導する部活の男声合唱団があったので、歌うようになった。大学時代にもそれらしい男声合唱活動をすることが出来た。大学卒業後に入団した一般の男声合唱団もまあ面白かった。しかし、指揮者が替わり、創団当時の歌いたい曲という主張も次第に希薄になり、他の団と似たり寄ったりの、日本の作曲家による、何が面白いのか全然分からないような、つまらない作品を歌うようになったので、約40年在団した合唱団を退団した。

そう、このごろの合唱作品は歌って面白く無いのだ
 コンクールに参加するために最近の作品を選ぶのは、これは作戦みたいなもので仕方が無いだろう。しかし、あなたの家族、友人、そして一般市民の皆さんがチケットを買って聴きに来てくれる演奏会なら、聴いてくれる大勢の皆さんが喜んでくれたかどうかは、次回の演奏会のチケットの売り上げにも響く大事なことでしょう。そのことをどれほどまじめに考えて選曲したか。それよりも、あなたの合唱団がここ数年歌った曲目は、歌っていて楽しかっただろうか、と問いたい。

どうすれば良いの?
 日本の合唱団ではまず、指揮者、次いで団内の、例えば、技術委員会が力を持っている。そんなところで演奏曲目が多数決で決まる。ところで、彼らの選曲基準に「聴衆」というファクターは入っているのだろうか。私は一般の男声合唱団で海外担当の役員や副会長までやった経験から言えば、役員会での「選曲」の議論の中に「聴衆」なんて条件が入ったことなんて、まったく記憶に無い。
 歌って面白く無い歌は、聴いたって面白いわけが無いのだが、こんな当たり前のことすら、日本の合唱界では誰も注意しない。ここまで言えば解決策は明らかだ。

対策
 聴衆を楽しませ、喜ばすことを徹底的に考えるしかない。世界中には、合唱団も、演奏曲目も、いくらでもお手本がある。合唱団の中で責任を持っている人は、ネットでも何でも良いから、世界中の合唱団の活動を調べ、自分で聴いて、楽しいと思うファクターをどう自分たちの合唱団に取り込めることが出来るか、知恵を絞って考えるのが良いだろう。今時のことだから、こんなことをやってみたいと思うメンバーはいくらでもいるだろう。
(完)
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海外の合唱を褒め過ぎる? [私の意見]

いろいろご意見をいただく
 このブログに私が書くことは、日本の合唱をけなし、外国の合唱を褒め過ぎるのではないか、というご意見をいただく。しかし私は、海外の合唱なら何でも良いと言っているわけではない。海外の合唱の中で私が良いと思うものを、それなりに理屈を付けて書いているのだ。自分の好みの合唱を取り上げて論じるのだから、途中を省けば、上のようなご意見をいただいても、仕方がないのだろうが。
外国の合唱なら良いのか?
 わが国の音楽フアンが海外のコーラスを論じる時、輸入盤のCDに頼りすぎている、と思わざるを得ない。日本は東洋の島国だから、世界中のコーラス・グループが頻繁に来日することも無いし、したがって、自由に聴くわけにはいかないのは当然だ。有名なコーラス・グループがたまに来日しても、それを聴くことが出来るのは大都市在住のほんの一部の合唱人で、多くの人びとは、新聞や雑誌に掲載された評を読む程度だ。そのような評を書く人間は、招待状をもらって書くわけだし、評価の定まったグループを悪く書くわけが無い。そのようにして、良いイメージばかりが増殖して行く。
 しかし、「提灯持ち」の評には乗せられたくない。お前も提灯を掲げているではないか、って?私はどこからもお金をもらっていないので、自分が思うこと、信じることしか書かないことにしている。
出来るだけナマを聴いて評価しよう
 若い時から演奏をナマで聴いて、良いか悪いかを判断しようとしてきた。その結果、自分なりに「良いものは良い、悪いものは悪い」と判断する癖がついたのは、良かったのか悪かったのか。
 好きだったSwingle Singersがより好きになったのは、アメリカで彼らの素晴らしい演奏を聴き、より良くなるように努力していることがレクチャーを聞いて分かったからだ。それまで聴いたことの無かったRockapellaの演奏を聴いて感激し、レセプションでベースのBarry Carl(当時)と話してからRockapellaの大のフアンになった。
 そんな良い出会いは一杯あるが一方、日本で評判が良く、私もナマで聴きたいと思っていたスウェーデンのThe Real Groupのコンサートを数年前にアメリカで聴いたが期待外れだった。音感の良い彼らのハーモニーでスウェーデンの作曲家の作品を聴くつもりで値段の高い席を取ったのだが、歌ったのはボカリーゼの曲が多く、途中で退席したいほどだった。
 そんなこともあって、その昔聴いて感動したThe Real Groupと、これまた大好きなSvanholm Singersが歌う"Kung Liljekonvalje"を聴き比べてみよう。どちらをどう感じられるかな?(混声/男声、人数、好み、いろいろあるが・・・)
The Real Group
http://www.youtube.com/watch?v=0Xxxh6vAWpQ
Svanholm Singers
http://www.youtube.com/watch?v=ip6NVQxgKAU
一度評判を取るといつまでも・・・
 外来の音楽家が日本で一度評判を取ると、何度来ても客席が埋まる。日本人はブランドに弱い?
 テナーで売った歌手が高齢になって、今度はバリトンで来日しても客が入る。まあ、彼個人のフアンなら高いチケットも気にしないのだろうが・・・  そして、若くて生きの良いバリトンのチケット代ならその何分の一かだろうに、客は入らない。
 話がそれたが、私は自分が心から良いと思う海外のコーラス・グループを褒めているので、海外なら何でも良いと言うのではない、ということをはっきり言っておきたい。
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合唱好きが我慢できずにひとこと(6:最終回) [私の意見]

それでは、いったいどうしたら作曲家に聴衆に楽しんでもらえるような作品を作曲してもらえるのでしょうか。
それは、実は簡単なことです。
組曲主義の「会う時はいつも他人」みたいな、演奏会に行くたびに違う曲目を聴かせられる演奏会を止めれば良いのです。
作曲しても歌われないと言うことが分かれば、作曲家は考えるでしょう。どうしても自分で作曲したい曲と、(飯を食うためかどうかは別として)みんなに歌ってもらえる曲とを自分の中で区分けすることを覚えるでしょう。「素人は自分の芸術を理解してくれない。」などと考えるとしたら、それはプロではありません。難しくても、とっつきにくくても、良いものは良いと判断できる合唱人は少なからずいて、正当な判断が出来ます。そして、歌う側や聴く側が、作曲家の勝手にはならないと言うことを示すことが大事なのです。(今回は最終回ですので、少々長くなるのをお許しください。)

実は、組曲主義の弊害に気づいて、ネットで歴史のある合唱団2つの10年間の定期演奏会で取り上げた曲目を調べてみたことがありました。これらの合唱団は意欲的な活動をしており、海外作曲家の作品、オペラ合唱曲、日本民謡なども比較的多く取り上げています。それでも、ひとつは、10年間の総ステージ数37(平均3.7ステージ/演奏会)の中で、邦人作曲家の組曲は17で約46%、それらはすべて1回のみの演奏でした。もうひとつの合唱団は10年間の全40ステージ(平均4ステージ/演奏会)の中で、邦人作曲家の組曲は21で約53%で、こちらもすべて1回のみの演奏でした。(皆さんも是非、ご自分の合唱団で調べてみてください。)
まあ、全ステージの約半分は邦人作曲家の組曲であり、一度取り上げると10年間で再演されることが無かったのですから、組曲を選ぼうとしたら、善し悪し、好き嫌いはさておいて、どんな組曲でも歌わざるを得なくなるのは当然でしょう。
それでは、組曲主義からどうやって脱出すれば良いか?
組曲を主体とした構成を止めて、演奏会やステージの趣旨やテーマにそって単曲を集めた構成のステージにすれば良いのです。組曲主体のステージ構成に慣れていると最初は不安かもしれません。しかし、(私の知っている限りでは)組曲と言うものがほとんど無い欧米の合唱団の演奏会では当然のことなのです。
オルフェイ・ドレンガー(OD)の演奏会は、来日した時の演奏会は2ステージでしたが、これはスウェーデンで聴いても同じでした。(150周年記念演奏会の時もプログラムには2ステージの曲目が印刷されていました。ただ、最後に現役、OB合同でエリック・エリクソンの指揮で歌ったステージが付け加えられましたが、まあ、これは記念演奏というか、アンコール・ステージといった形でしょう。)
ヘルシンキ大学男声合唱団が来日した時の演奏会もたしか、2ステージ構成でした。

そんなことを念頭において、次の提案をして私の「ひとこと」を終わらせたいと思います。

提案1:「団員も聴衆も喜ばないような組曲は歌わない」
作曲家に聴衆に楽しんでもらえるような作品を作曲してもらうもっとも良い方法です。
作曲家がどんな詩を選ぼうが、どんな難解な作品を作曲しようが、作曲するのは個人の自由ですから勝手です。だから、合唱団としては、自分たちで歌って楽しくなさそうな曲、聴衆に喜んでもらえないような曲を選ばなければ良いのです。また、聴衆の皆さんも我慢をしないことです。面白くなかったら面白くないと、難解な曲なら分からないと、つまらなかったらつまらないと、合唱団に対して意思表示をするべきです。演奏する側だって内心では「こんな曲は聴衆も喜ばないだろうな」と疑問を持ちながら歌うこともあるのですから、そんな時に聴衆が異議を唱えれば反省するでしょう。しかし、聴衆が異議を唱えなければ「こんなものでもありか」と思い、変わりません。歌う側や聴く側が作品に異を唱え、歌わなければ良いのです。これまでどんな曲でも歌ってきたのが諸悪の根源だったのです。
このような活動を続けてゆけば、作曲家も目が覚めるのではないでしょうか。

提案2:「組曲を取り上げないと演奏会のステージを構成できないという意見に対して」
組曲を入れないと演奏会のプログラム・ビルディングが難しいとお考えの合唱団は、あまりにも旧弊というか悪弊に捉われすぎです。
世界に目を向けますと、スウェーデンで出版されている男声合唱曲の楽譜をまとめて大量に購入したことがありましたが、ほとんどがピースで、組曲らしい(?)のは4曲が1冊にまとめられたバルトークの「古いハンガリア民謡」があったくらいでした。私が知っている限りでは、韓国、ドイツ、アメリカも同様に組曲は無いと言って良いようです。
そう考えれば、組曲は、作曲家と、ピースで売るより曲集にしたほうが単価が高いという楽譜出版社の利害が一致したために、日本で独自の発展をした合唱曲のスタイルなんでしょうね。(これもガラパゴス現象?)
しかし、演奏会に当たって、組曲を順不同、行き当たりばったりにステージ数に当てはめれば良いというものではないと思うのです。
どんな舞台芸術でも、プロでもアマチュアでも基本的な考え方は同じだと思いますが、聴衆をどうやって楽しませるかを考えることが大切です。それがほとんどの合唱団にはこれまで欠けていたと思うのです。
演奏会全体にテーマを決めるか、演奏会を2~3ステージ構成とし、流れを考えて各ステージのテーマを決めて選曲するのです。
選曲の対象となる曲目は、国内外を問わず、ジャンルを問わず(オペレッタ、ミュージカル、ジャズ、民謡、時には歌謡曲などなんでも)、組曲はばらして単曲にし、ステージの趣旨や構成を考えて、多くの曲目の中から組み合わせるのです。

まあ、以下は組曲にとらわれないプログラム・ビルディングのアプローチとして考えたものです。(思いつくまま、順不同、ご参考までに。)

1.その年の定演が合唱団にとってどんな意味があるのか:創立以来5年、10年、25年といった区切りの良い年とか、演奏旅行とか亡くなった団員を偲ぶとかいった特別な出来事のあった年とか、
2.この区切りをプログラム・ビルディングにどう反映させれば良いか:これまでの演奏会で評判の良かった曲を並べたステージとか、演奏旅行先に関係した曲を並べるとか、
3.ステージにテーマをつける:定演の時期によって季節感のあるテーマとか(例、春「花」、夏「海、山」、秋「収穫、紅葉、祭」、冬「雪、スキー、クリスマス、お正月」)、時には世界巡りやアジア巡り、ジャンル別(例、アフリカン・アメリカン・ソング、オペラやオペレッタ、各国の作曲家の作品、カンツォーネ、各国の民謡、)とか、
4.地元重視:地元の民謡、ご当地ソング、地元出身の作曲家の作品とか、
5.持ち歌の充実:演奏会で評判の良かった曲や団員が特に気に入った曲を合唱団の「持ち歌」として、数年に1回はステージで歌い、聴衆にも親しんでもらうようにするとか、「またあの曲か」と言われようが「のばら」を毎年歌うよりは良いのでは、
6.ステージ数:あるテーマで選曲すると10曲ぐらいは普通なので、大体は2ステージ、多くても3ステージ構成になるのではないか、無理に4ステージにこだわることは無い、
7.笑いの無い舞台芸術は淋しい:ナレーションや選曲の中で、笑いをとる工夫をするのは大事なことで、棒のように突っ立って歌うのをただ聴くだけではつまらないと思うべき(あのODだって工夫をしていることはご存知のとおりです)、
8.驚きの曲を入れる:聴衆の意想外の曲として例えば、きわめて複雑なハーモニーの曲を上手く歌う、きわめて短い曲(ODが1~2小節の曲を歌っている)、際立ってテンポの速い「早口言葉」のような曲、オーケストラの曲の各楽器パートを声で歌う、口をあけるが声を出さず表情だけの合唱とか、
9.いつも全団員で歌うのは変:そもそも可愛らしい童謡を100人で歌うなんておかしいのだから、曲によって大人数にしたり少人数にしたりしての合唱とか、男声合唱団でも曲によっては女声を入れるとか、
10.曲のつなぎ:関連の乏しい曲を並べる時には曲をつなぐナレーションは大切、つなぎの間奏も有効、ビデオを背景に映すのも良いか、

私の独断的な説に長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。それもこれも、はじめに書きましたように、永年合唱をやってきた人間が聴く側に立場が変わって、日本の合唱が面白くないことに(遅ればせながら)気がついて考えたことです。
合唱団は、演奏会では聴衆を楽しませる工夫をいろいろ考えて、合唱が市民権を再び得るように努めて欲しいと心から願う次第です。(終)
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合唱好きが我慢できずにひとこと(5) [私の意見]

それではどうしたらよいか、と自問自答しても、万能薬を思いつくはずもありません。(妙案があれば今頃は状況がずっと良くなっているはずです。)
ただ、対症療法はいくつか思いつきます。

1.歌い方をいくら工夫しても、聴き取れない、意味が分からない言葉が歌詞にはあるということを前提に対策を考える。

2.聴いて意味が理解できるような詩を選んで作曲するように作曲者にお願いする。

1.は現状是認、もしくは、すでに存在する作品を歌うためにはどうしたら良いか、を考えることです。
私が在籍していたある合唱団で、30年以上前に、演奏会のプログラムに歌詞を印刷するだけでは不足なので、演奏前に曲目解説をすることを提案したことがありました。その時に、団内指揮者から「N饗が演奏会前に曲目解説をしているか」との理由で強硬に反対されたことがあります。
有名な、良く知られた交響曲2~3曲を演奏し、クラシック音楽の知識のある聴衆を相手のN饗の演奏会と、ほとんどの聴衆にとって初めて聴く曲を演奏する合唱演奏会とでは意味が違う、と反論したことを覚えています。そして、そんな考え方が幅を利かしているうちは、合唱には未来が無いと思ったものでした。
近時、オペラでは翻訳した歌詞を字幕でステージに表示する演奏会があります、これを合唱演奏会でも採用し、漢字かな混じり文の日本語の歌詞を表示すれば、聴衆の皆さんは助かるのではないでしょうか。もっと手軽には、模造紙に歌詞を印刷してステージ上に張り出す方法もあるでしょう。

2.は難しい話ですが、今後合唱フアンを増やす上ではもっとも効果があると思います。
「難しい」と書いたのは、どんな曲を作曲するかは、芸術家である作曲家の意思に関することだからです。選んだ詩がいくら難解だと他人が思っても、作曲家本人がそれに作曲したいと思うのは自由ですから、誰も反対出来ません。
まして、出来上がった曲を多くの合唱団が歌ってくれれば、作曲者は自分の作品を「良い作品」と多くの人が認めてくれたものと考えて(時には誤解して)、さらに同じような作品を作ることになるでしょう。
そうです、日本の合唱人や聴衆は、歌っても聴いても面白くない作品であっても、これまで異議を唱えることが無かったのです。それはそうでしょう、合唱団にとっては、自分で選んだ曲を歌うのですから、それが仮に面白くなくても「自己責任」なのです。
それが、委嘱して1回しか歌われないような作品や、歌っても聴いても面白くも可笑しくも無いような作品が作られ続ける大きな原因になってきたことを、合唱団の皆さんに理解して欲しいのです。そう考えると、合唱団の責任はとても大きいのです。
それでは、いったいどうしたら作曲家に聴衆に楽しんでもらえるような作品を作曲してもらえるのでしょうか。

(続く)

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合唱好きが我慢できずにひとこと(4) [私の意見]

合唱の作曲家はどんなふうに詩を選ぶのでしょうか。
詩集を手にして、いくつかの詩を読んで、合唱作品にしたいという気持ちになった詩を決めるのでしょうね。
戦前の合唱コンクールで歌われた曲目を見ると欧米の作品が主で、邦人作曲家の作品はごく少ないことから考えて、日本の合唱曲はほぼ、第二次世界大戦後に発展したと考えて良いでしょう。
1948年の第1回全日本合唱コンクールで男声合唱の課題曲の公募作品から選ばれた清水脩の「秋のピエロ」は、後の男声合唱組曲「月光とピエロ」になりました。
清水 脩から作曲上の指導や助言を受けたと言われる多田武彦は、1954年に最初の男声合唱組曲「柳河風俗詩」を発表しました。
このお二人の作曲家が詩を選ぶのは、当時はある意味、楽だったことでしょう。なぜなら、日本語の詩による作品が作曲され始めたばかりの時代ですから、合唱作曲用の詩を自由に選ぶことができたと考えられるのです。
加えて、このお二人の作曲家の優れた才能のおかげで、「月光とピエロ」も「柳河風俗詩」も今でも歌い継がれています。これらの曲の魅力は、歌う側としてはもちろん、メロディやハーモニーと共に、美しい詩ですが、聴衆にとっても、聴いていて心地よい上に、歌詞がよく聴き取れることにあります。
堀口大学や北原白秋の詩は、読んでも聞いてもそれほど難解ではないことも指摘できると思います。
しかし、大勢の作曲家が多くの合唱作品を書くようになると、これまで取り上げられなかった残りの詩から選ばなければならないので、作曲家にとっては詩の選択範囲が狭まってくることが考えられます。

合唱作曲家は良い詩を選びたくても、気に入った詩を見つけたくても、もう無くなったということなのでしょうか。そんなことが影響しているのかどうか分かりませんが、近年は難解な詩や、長すぎる詩の合唱作品があり、歌詞を聴き取りにくいことがしばしばあります。
一方、読んでみてはそれほど難解ではないのに、合唱にすると歌詞を聴き取れない詩もあります。
たとえば、2008年に作曲された多田武彦の男声合唱組曲「春のいそぎ」は、私の大好きな詩人、伊東静雄の詩ですが、歌詞の中になかなか聴き取りにくい箇所があります。
読めば素晴らしい詩であることが了解できますし、多田さんの作品ですから、詩の言葉と意味を生かすべく、いろいろ工夫がなされています。それなのに、です。

「春の雪」
みささぎにふるはるの雪/枝透きてあかるき木々に/つもるともえせぬけはひは/

なく聲のけさはきこえず/まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の/しつかなるはねにかつ消え/

ながめゐしわれが想ひに/下草のしめりもかすか/春來むとゆきふるあした

上記で、イタリック体にした部分、「みささぎ」、「えせぬ」、「百ゐむ鳥」といったところは聞きなれない古語です。「枝透きて」、「しつかなるはねにかつ消え」の「はねにかつ消え」、「ながめゐしわれが想ひに」の「ながめゐし」などは耳から聴いただけでは意味が取りにくい言葉です。
耳には、「ミササギ」、「エセヌ」、「ヒャクイムトリ」、「エダスキテ」、「ハネニカツキエ」、「ナガメイシ」と聴こえ、これらは、演奏を聴いて言葉は聴き取れたとしても、聴いた瞬間にその意味を理解することは至難の技です。

合唱団員は当然、漢字かな混じり文の詩を読んでいますし、練習で繰り返し歌っていますから、詩の情景をイメージしながら、感じながら歌うことが出来ます。
しかし、聴衆は違います。
聴衆にとって、言葉がリアルタイムで耳に入ってきますので、言葉を一瞬聞き逃したからといって、意味が分からなかったからといって、さかのぼって聴きなおすことは出来ません。まるで「一期一会」の言葉どおり、その音は一度きりしか聴こえないのです。肝心の言葉を聴き取れなかったら、その曲は意味がわからないままで終わるのです。

作曲家も合唱団も言葉を生かそうと努めているのに、そして母国語である日本語の作品を日本人が聴いているのに、聴衆はその歌詞を聴き取れない。
いったい、どうしたら良いのでしょうか。
(続く)
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