「おとうさんコーラス全国大会」があったら・・・ [私の意見]
おかあさんコーラス全国大会が終って
9月7日の朝日新聞夕刊によれば、見出しに「圧巻のパフォーマンス」とあって、おかあさん全国大会の模様が書かれている。
朝日新聞夕刊(2015.09.07)
この記事を読んで感じたのだが、この全国大会に相当するであろう男声の大会、1月に「じゃむか関西」と7月に「全日本男声合唱フェスティバル」が開催されたことで、この二つは、日本における実質的な「おとうさんコーラス全国大会」ではないか。 そう思ったところから、いろいろ考えた。
おとうさんコーラス大会はどんな評を得るだろうか?
おかあさんコーラス大会は、日本の合唱界では珍しいほど、毎年、いろいろな歌唱と表現(パフォーマンス)で評価されていることは、後援している朝日新聞の記事を読んでいると、よく分る。そう、お母さんたちは、コーラスを幅広く捉え、単に、良い声、良いハーモニーに籠もらないで、歌唱とパフォーマンスを組み合わせて、自分たちの歌をどうやって聴衆に伝えるか、を一生懸命に考えているのだ。
そんな場で男声合唱団が歌ったら、一体どんな評を得るだろうか?
敗戦後の娯楽の少ない時代には、それらしいハーモニーを付けて合唱するだけで、喝采を受けた時もあった。それから時代が変わっても、レパートリーも、歌う姿勢もあまり変わらないのが男声合唱の世界だ。
今でもただ突っ立って歌う、聴衆に対してまったく愛想の無い姿勢、さらに戦後すぐの状況より悪くなったのは、曲は難しくなり、メロディ・ラインが明確で無く、日本語の歌詞がほとんど聴き取れなくなったことだ。
しかし、歌い手側はそんなことにはまったく気付かずに(気にせずに)、ただ「突っ立って」歌っているというのはどうしてだろう。そんな男声合唱に、どんな評価がなされるだろうか?考えただけでも、良い評など期待出来ないではないか。
残念ながら、おとうさんの負け!
昭和20年代から30年代の、日本の大学男声合唱団華やかなりしころの男声合唱、日本の男声合唱団はそのイメージの延長の中で、変わること無くこれまでやって来たようだ。しかし、一般男声合唱団は当時に比べれば衰退の道をたどってきた。大学男声合唱団が衰退したので、一般男声合唱団に対する新卒者の補給も少なくなったのだ。一般男声合唱団は、高齢メンバーによって団員数は維持できても、さらなる高齢化に逆らえず、したがって、演奏のレベルを維持することは難しい。演奏するだけでも精一杯なのだからく、それ以上にパフォーマンスを考えるなどは無理な注文になって来ているのかもしれない。このままでは、おとうさんの負け、である。
対策は?
指導者も含めて、一般男声合唱団の意識改革を待たなければなるまい。
ブランドのある大学男声合唱団が、人数的には復旧したように見えるが、彼らもただ突っ立って歌っているだけだから、参考にはならない。
一方、世の中を見れば、来日するヘルシンキ大学男声合唱団、スウェーデン王立男声合唱団(オルフェイ・ドレンガー)、エール大学ウイッフェンプーフス合唱団など、演奏会では、素晴らしい演奏と共に、いろいろなパフォーマンスを見せてくれる。ところが、見て良いとは思っても、感心はしても、日本人は真似しようとしない。「他人は他人、自分は自分」なのだろうが、本当にそうだろうか?良いと思ったら真似したら良いではないか。もう一つ最近気になるのは、横文字の曲を歌うことがめっきり減っていることだ。高齢化で横文字が苦手、という事情が分らないでもないが、大学合唱団も毛嫌いしている雰囲気があるのは、どうしてだろう。良い曲がたくさんあるのだから、指導者は是非歌うように勧めて欲しい。
少なくとも、自分で聴いて、見て、良いと思ったことは、自分たちの聴衆のためにやってみてはどうだろうか。
9月7日の朝日新聞夕刊によれば、見出しに「圧巻のパフォーマンス」とあって、おかあさん全国大会の模様が書かれている。
朝日新聞夕刊(2015.09.07)
この記事を読んで感じたのだが、この全国大会に相当するであろう男声の大会、1月に「じゃむか関西」と7月に「全日本男声合唱フェスティバル」が開催されたことで、この二つは、日本における実質的な「おとうさんコーラス全国大会」ではないか。 そう思ったところから、いろいろ考えた。
おとうさんコーラス大会はどんな評を得るだろうか?
おかあさんコーラス大会は、日本の合唱界では珍しいほど、毎年、いろいろな歌唱と表現(パフォーマンス)で評価されていることは、後援している朝日新聞の記事を読んでいると、よく分る。そう、お母さんたちは、コーラスを幅広く捉え、単に、良い声、良いハーモニーに籠もらないで、歌唱とパフォーマンスを組み合わせて、自分たちの歌をどうやって聴衆に伝えるか、を一生懸命に考えているのだ。
そんな場で男声合唱団が歌ったら、一体どんな評を得るだろうか?
敗戦後の娯楽の少ない時代には、それらしいハーモニーを付けて合唱するだけで、喝采を受けた時もあった。それから時代が変わっても、レパートリーも、歌う姿勢もあまり変わらないのが男声合唱の世界だ。
今でもただ突っ立って歌う、聴衆に対してまったく愛想の無い姿勢、さらに戦後すぐの状況より悪くなったのは、曲は難しくなり、メロディ・ラインが明確で無く、日本語の歌詞がほとんど聴き取れなくなったことだ。
しかし、歌い手側はそんなことにはまったく気付かずに(気にせずに)、ただ「突っ立って」歌っているというのはどうしてだろう。そんな男声合唱に、どんな評価がなされるだろうか?考えただけでも、良い評など期待出来ないではないか。
残念ながら、おとうさんの負け!
昭和20年代から30年代の、日本の大学男声合唱団華やかなりしころの男声合唱、日本の男声合唱団はそのイメージの延長の中で、変わること無くこれまでやって来たようだ。しかし、一般男声合唱団は当時に比べれば衰退の道をたどってきた。大学男声合唱団が衰退したので、一般男声合唱団に対する新卒者の補給も少なくなったのだ。一般男声合唱団は、高齢メンバーによって団員数は維持できても、さらなる高齢化に逆らえず、したがって、演奏のレベルを維持することは難しい。演奏するだけでも精一杯なのだからく、それ以上にパフォーマンスを考えるなどは無理な注文になって来ているのかもしれない。このままでは、おとうさんの負け、である。
対策は?
指導者も含めて、一般男声合唱団の意識改革を待たなければなるまい。
ブランドのある大学男声合唱団が、人数的には復旧したように見えるが、彼らもただ突っ立って歌っているだけだから、参考にはならない。
一方、世の中を見れば、来日するヘルシンキ大学男声合唱団、スウェーデン王立男声合唱団(オルフェイ・ドレンガー)、エール大学ウイッフェンプーフス合唱団など、演奏会では、素晴らしい演奏と共に、いろいろなパフォーマンスを見せてくれる。ところが、見て良いとは思っても、感心はしても、日本人は真似しようとしない。「他人は他人、自分は自分」なのだろうが、本当にそうだろうか?良いと思ったら真似したら良いではないか。もう一つ最近気になるのは、横文字の曲を歌うことがめっきり減っていることだ。高齢化で横文字が苦手、という事情が分らないでもないが、大学合唱団も毛嫌いしている雰囲気があるのは、どうしてだろう。良い曲がたくさんあるのだから、指導者は是非歌うように勧めて欲しい。
少なくとも、自分で聴いて、見て、良いと思ったことは、自分たちの聴衆のためにやってみてはどうだろうか。
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