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第15回東京男声合唱フェスティバル [私の意見]

  恒例の東京男声合唱フェスティバルが、今年(2015年)も浜離宮朝日ホールで11月8日(日)に開催された。なんと62団体(!)が参加、加えて、招待演奏と公募合唱団の演奏もあり、午前10時半から午後8時40分まで、およそ10時間という長丁場のフェスティバルになった。(役員の皆さん、特に、ステージ上で譜面台を運んだり、永年出演の記念品を渡しておられた小柄の女性は、終始一生懸命に働いていて、客席に居た多くの人も感じるところがあったと思う。本当にご苦労さまでした。)
男声フェス表紙s.jpg
第15回東京男声合唱フェスティバルのプログラム表紙

素晴らしい演奏がいくつもあったが、個別の評はさておいて、全体的な感想を順不同で列挙してみる。

・ 男フェスは一般の人も楽しめるか?
 50年以上男声合唱を歌ってきて、10年前から主に聴くほうに廻った個人としての私。その私が聴いても詰まらない合唱の演奏が多いのだから、一般人が楽しめるとは到底考えられない。
そもそも、合唱が日本国で市民権を得られる時代がやってくるのだろうか、ということがずっと気になっているが、日本の合唱界がよほどの変革をしない限り、当分無理だろう。例えば、今回の会場に居たのは、出演した合唱団の団員とその知り合いプラス合唱愛好家だけで、自分の出番が終れば会場から居なくなる人が多い。だから、朝一番とか、休憩時間後の客席の空きを見ると、演奏団体が気の毒になった。
このところ、朝日新聞が力を入れるようになったが、吹奏楽(ブラスバンド)の近年の活動振りを見聞きするにつけ、合唱界、特に男声合唱はますます、仲間内だけの世界に引き篭もるような傾向にあると思うが、これは私の思い過ごしであろうか?(「それで何が悪い」と言う声が聞こえてくるように感じられる。連盟自体が危機感も何も持っていないのだから希望は無い。そもそも、朝日新聞社の建物内に部屋を借りなければ運営出来ないらしい連盟にも、もう少し考えて欲しいと思う。)

・ 無差別級の出演順で良いか?
 高齢化しても生き生きと合唱活動を続けているのは、生きがい、楽しみ、健康、仲間づくり等、とても大事なこととは、私も「末期高齢者」に足を突っ込んでいるので、分っているつもりだ。しかし、平均年齢が70歳近い合唱団と、若くて、声の良い合唱団との演奏順が「順不同」というのは、聴いていて少々気の毒になる。引き立て役ではないのだからせめて、演奏をグループ別けして、それぞれにに楽しい名前、例えば、「ドッコイ生き甲斐」、「若造も上手いでしょう」、「仕事も合唱も」、「学業を疎かにはしていません」、「僕達も予備軍」などと名付けて、区分けしたらと思う。ここまで書いて気が付いたのだが、皆が若い方のグループに出たいと思うかもしれないから、難しいかな?

・ ようやく清水・多田の時代は去ったか?
 男フェスと言えば、いつも、清水・多田の作品の演奏が多いことにクレームを付け続けてきた。今年は、清水作品が2団体で4曲、多田作品が9団体で12曲歌われた。相変わらず多田作品が多いように感じられるが、「時代が去った」とは言えなくなったようだ。
それは、近年の作曲家の作品は概して、歌詞は聴いて面白くも可笑しくも無く、メロディは美しいとはとても言えない。そんな作品でも、少人数の、声もテクニックもある合唱団が絶妙に歌えば、その演奏に感心することはあるが、多くの「普通」の一般合唱団が歌っても何も面白くない。そんな時に清水・多田作品を聴くと、昔歌った人に限らず、今の若い人が聴いても、歌詞の内容が良くて、かつ、歌詞を聴き取れ、また、メロディはつい口ずさみたくなる美しさと分りやすさ、これらに、ほっとする。(最近の多田作品の歌詞は除く。)
今回のフェスで歌われたある作曲家の作品を7合唱団、別の二人の作曲家の作品をそれぞれ4合唱団が歌っていたが、これは好みの問題、とバッサリやられそうだが、その歌詞に何か心に感じながら歌っているとは思えなかった。

・ 若い人の演奏の素晴らしさにひと言
 私は朝から演奏のすべてを聴いたが、若い人の少人数から大人数の合唱団まで、その声とハーモニーの素晴らしさには心から感服した。来年の招待合唱団の投票でも、同率2位の3合唱団も1位の合唱団もどれもが若く、かつ、1位は15人と言う少人数。しかし、1位の合唱団に言いたいのは、それだけの才能を持っているなら、単に絶妙なハーモニーを表現できるテクニックを誇示するだけでなく、もっと聴衆を喜ばせ、楽しませてくれるような内容の曲を選んで聴かせて欲しいものだ。あの2曲の面白くも可笑しくも無い歌詞を聴いていて、君たちの心を伝えたい曲とは、とても感じられなかった。

(上記内容に関係して)
 歌っていれば満足、と言う合唱団があると思えば、どうだ、こんなに難しい歌も歌えるんだぞ、とテクニックを前面に出して聴かせる合唱団もある。ただ、ステージでの演奏は、聴かせるというのは一面で、聴いて楽しむと言う聴衆の側もあることを忘れてもらっては困る。テクニックを売るのも肯定できるが、きれいなメロディと、心に沁みるか、聴いて楽しくなるような歌詞、それを伝えるための歌い手の表情、それらは言い換えれば、舞台芸術は「エンターテインメント」性が大切である、ということも心して欲しい。

・ 指揮者にお願い
 曲の解釈など、指揮者の勝手と言えば言えないことも無いが、あまりにも違和感の大きい演奏には辟易する。そんな演奏が今回の男フェスでもいくつかあった。
そもそも合唱曲には、①まったくの創作曲の初演、②創作曲だが作られてから長い時間が経って歌い方のスタイルがほぼ固まった曲、③元歌があるとか有名なグループの持ち歌で聴く人がすでにイメージを持っている曲など、いろいろある。①の場合はともかく、ほとんどの人が「名演奏」を聴いて知っている②や③の曲の場合、みなが持っているそのイメージとあまりにもかけ離れた指揮は、「独創」か「無知」かである。指揮者は、どんな解釈をしても良いが、せめて、過去の名演奏を知った上で、持てる才能を発揮して、新しい解釈を聴かせてもらいたいものだ。

・ 日本の聴衆の無愛想さは格別
 いくつかの合唱団がコーレオグラフィ(振り)を工夫して、聴衆を喜ばせ、楽しませようとしていた。日本の合唱界ではまれなことなので、大いに楽しませていただいた。しかし、ふと周囲を見回したら、笑顔の人は皆無で、みな真面目な顔をして見ている。
聴いて、見て、楽しかったら顔に出せば良いのに、そして、聴衆が楽しんでいることをステージから見たら、振りにますます気持ちを入れて、楽しませようとするだろうに、どうしてだろう。
第一の理由は、日本の合唱界では、おかあさんコーラスを除いて、直立不動で、表情も変えずに歌うのが良い(?)という思い込みがあるようだ。それでいて、演奏が終ったら大きな拍手が出たのだから、内心では共感していたのだろう。
(追加)歌っていて上着の下に着ていた(前だけの)シャツをパッと外して胸部を露出したら、笑いと拍手が出た。その努力を認めることにやぶさかでは無いが、同じ仕掛けで、シャツの色を変化させるほうがよほどスマートで楽しい。(TVで一部のお笑い芸人がやっているが、肉体を露出するのはすぐ笑いを取れるが、一番レベルの低い演出と考えるべきだろう。)

(気が付いたことがあれば、後で追記する)

  なお、私のように「歯に衣を着せぬ」発言をすると、大きな反発を食うことが多いのですが、日本の合唱を良くしようと考えての発言とご理解下さって、皆さんのご意見をいただければ幸いです。
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